里親制度と養子縁組はどう違う? 家族を迎える前に知っておきたい基本

人物

「里親と養子縁組って、結局なにが違うの?」
先日、同い年の友人とお茶をしていたとき、こう聞かれました。

私は野々宮京子といいます。
女性誌の編集部に20年いて、美容とライフスタイルのページを担当してきました。
いまはフリーの編集者として、美容業界で働く人たちの生き方を取材しています。

友人の質問に、私はうまく答えられませんでした。
「どちらも、よその子を育てる制度でしょう」くらいの理解しかなかったのです。
恥ずかしくなって、こども家庭庁や法務省の資料を読み込みました。

この記事では、調べてわかった里親制度と養子縁組の違いを、表を使って整理します。
年齢の不安や、こどもに生い立ちをどう伝えるかといった、迎える前に考えておきたいことにも触れます。

里親と養子縁組を分けるのは「法律上の親子になるかどうか」

いちばん大きな違いは、育てる大人とこどもが法律上の親子になるかどうかです。
里親は親子になりません。
養子縁組は親子になります。

里親は、こどもを「預かって育てる」仕組み

こども家庭庁の里親制度等についてによると、様々な事情で親と暮らせないこどもは全国に約4万2千人います。
里親制度は、そうしたこどもを児童相談所が里親家庭に委託し、家庭で育ててもらう仕組みです。

いまも多くのこどもは乳児院や児童養護施設で暮らしています。
里親やファミリーホームで暮らすこどもの割合(里親等委託率)は、平成26年度末の16.5%から令和6年度末には26.3%まで上がりました。
国は、施設よりも家庭に近い環境で育つこどもを増やす方向で動いています。

親権は原則として実の親に残ります。
里親は日々の生活や教育に必要なことは担いますが、戸籍上は他人のままです。
委託は原則18歳までで、必要があれば20歳まで延長できます。
実の親の状況が改善して、こどもが実家庭に戻ることもあります。

養子縁組は、戸籍の上でも親子になる仕組み

養子縁組は民法に基づく制度で、縁組が成立すると法律上の親子になります。
こどもは養親の苗字を名乗り、互いに扶養する義務や相続の関係も生まれます。
期限はなく、こどもが大人になってからもずっと親子です。

ここで、里親と特別養子縁組(実の親との関係が終わる養子縁組)を並べてみます。

比べるポイント里親(養育里親)特別養子縁組
法律上の親子関係なしあり(実の親子と同様)
親権原則として実親養親
戸籍変わらない養親の戸籍に入る
期間原則18歳まで(延長で20歳まで)生涯
行政からの手当里親手当・生活費などなし
主な窓口児童相談所児童相談所・民間あっせん機関

手当の行について、こども家庭庁の不妊症・不育症の情報サイトは、特別養子縁組では手当が支給されないとはっきり書いています。
里親は「社会の子を預かる仕事」に近く、養子縁組は「自分の家族を増やすこと」に近い。
私はそう理解しました。

里親には4つの種類がある

里親と聞くと1種類に思えますが、実際は4つに分かれています。
こども家庭庁の資料集社会的養育の推進に向けて(令和8年3月)をもとに整理しました。

種類どんな里親か登録世帯数
養育里親養子縁組を前提とせず、一定期間こどもを育てる15,392世帯
専門里親虐待を受けた子や障害のある子など、特に支援が必要な子を育てる713世帯
養子縁組里親養子縁組をして養親になることを希望する7,677世帯
親族里親親が亡くなった場合などに、祖父母などの親族が育てる624世帯

数字は令和7年3月末時点です。
登録里親は全体で18,038世帯、実際にこどもを預かっている委託里親は5,411世帯、委託児童は6,637人でした。
重複登録があるため、種類ごとの数を足しても総数とは一致しません。

養育里親に登録するまでの流れ

養育里親になるまでの流れも、資料集に図で載っていました。
ざっくりまとめると次のようになります。

  • 児童相談所などが開く説明会で、制度の話を聞く
  • 児童相談所に登録を申し込む
  • 基礎研修(1日程度)と施設での実習(1日程度)を受ける
  • 登録前研修(2日程度)と養育実習(2日程度)を受ける
  • 研修と並行して、職員による家庭訪問と調査がある
  • 都道府県の児童福祉審議会の意見を聞いたうえで、里親名簿に登録される

研修では、こどもの心と体のことや、こどもの権利について学びます。
先輩里親の体験談を聞く時間もあるそうです。

登録したあとも学びは続きます。
養育里親は5年ごと、専門里親は2年ごとに登録の更新があり、そのたびに研修を受けます。
なお、一つの家庭で同時に育てられる委託児童は4人までと決まっています。

見落としがちなのが養子縁組里親の位置づけです。
児童相談所を通じて特別養子縁組を目指す場合は、まず養子縁組里親として登録し、こどもと一緒に暮らしながら縁組の手続きを進めます。
里親と養子縁組は別の制度ですが、入り口の部分ではつながっているのです。

手当と生活費はどれくらい出るのか

同じ資料によると、令和7年度の単価は次のとおりです。

項目月額
里親手当(養育里親)90,000円
里親手当(専門里親)141,000円
一般生活費(乳児)65,910円
一般生活費(乳児以外)57,080円

このほか、教育費や医療費、進学や就職のときの支度金なども支給されます。

ただし、養子縁組里親と親族里親には里親手当が出ません。
養子縁組が成立すれば法律上の親子になるので、行政からの手当もなくなります。
わが子として育てるのだから当然といえば当然ですが、家計の計画を立てるうえでは知っておきたい点です。

養子縁組にも「普通」と「特別」の2種類がある

養子縁組にも種類があります。
法務省の養子縁組について知ろうによると、縁組後も実の親との関係が続く「普通養子縁組」と、実の親との関係が終わる「特別養子縁組」の2つです。

比べるポイント普通養子縁組特別養子縁組
成立のしかた市区町村への届出(未成年を養子にする場合は家庭裁判所の許可が必要)家庭裁判所の審判
養親の年齢20歳以上原則25歳以上の夫婦
養子の年齢養親より年下原則15歳未満
実の親との関係続く終わる
離縁話し合いでできる原則できない
戸籍の続柄「養子」「養女」「長男」「長女」など

普通養子縁組は、成人を養子にする場合にも使える幅の広い制度です。
一方、親と暮らせないこどもに温かい家庭を用意するための制度として作られたのが特別養子縁組です。
こども家庭庁の資料では、昭和62年にできた制度と説明されています。

特別養子縁組では、家庭裁判所が縁組を認める前に、養親がこどもを6か月以上育てた様子を見ることになっています。
こども家庭庁の特別養子縁組制度についてに、要件がわかりやすくまとまっています。

特別養子縁組の年齢要件は2020年に変わった

調べていて驚いたのが、古い情報がネット上にまだ多く残っていることです。

特別養子になれるこどもの年齢は、以前は原則6歳未満でした。
2020年4月に改正民法が施行され、いまは原則15歳未満に引き上げられています。
ところが検索すると、改正前の「6歳未満」のままの解説がいまも見つかります。

調べるときは、ページの更新日と、こども家庭庁や法務省の最新情報を確認するようにしてください。

司法統計年報によると、特別養子縁組の成立は令和6年で563件でした。
里親に委託されている児童が6千人を超えていることと比べると、かなり少ない数です。

50代・60代からでも家族は迎えられるのか

私と同世代の読者が一番気になるのは、たぶん年齢のことだと思います。

里親については、国の要件に「年齢に一律の上限は設けない」と明記されています。
こどもを育てられる年齢かどうかを、個別に判断する方式です。

実際、こども家庭庁の児童養護施設入所児童等調査(令和5年2月1日現在)では、こどもを預かっている里親家庭の里母は50歳代が36.0%、60歳以上が27.7%でした。
合わせると6割を超えます。
里親の世界では、50代・60代はむしろ中心の世代なのです。

特別養子縁組は事情が違います。
法律上の上限はありませんが、赤ちゃんを迎えるなら、その子が成人するまで元気に育てられるかが問われます。
たとえば認定NPO法人フローレンスは、新生児や乳児を託している関係で、養親の年齢の目安を45歳以下としています。

年齢の目安は、児童相談所や民間の機関ごとに違います。
50代で「養子を迎えるのは難しそうだ」と感じた人も、養育里親なら道があるかもしれません。
短い期間だけこどもを預かる里親の形を案内している自治体もあります。

迎える前に考えておきたい「真実告知」

里親でも養子縁組でも、いつかは向き合うことになるのが「真実告知」です。
育ての親が、こどもに生い立ちを伝えることをいいます。

このテーマを考えるとき、私の頭に浮かんだのがエステティックサロンの草分けであるたかの友梨さんでした。
週刊女性PRIMEのインタビューで、たかの友梨さんは14歳のときに自分が養子だと知ったと語っています。
学校の先生の言葉を伝え聞き、戸籍謄本を取り寄せて「養子」の記載を見つけたそうです。

2022年のデイリースポーツの記事では、そのときの気持ちの変化をこう振り返っています。
「甘えて罵倒してた母親が、実は他人の子を育ててくれてたんだと思ったら、急に感謝に変わりまして『この親に何か役に立ちたい。恩返ししたい』」

育ての母への感謝が、仕事の原動力になったといいます。
公式プロフィールによると、いまは社会福祉法人の後援会長として児童養護施設の支援にも関わっています。

そんなたかの友梨さんは、いま2人の娘さんの母でもあります。
2026年1月、78歳の誕生日を迎えた翌日に、長女の友花さんから肖像画を贈られたことをInstagramに投稿していました。
「これまでの人生でいただいたプレゼントの中で間違いなく一番うれしい贈り物です」という言葉に、私も胸が熱くなりました。
たかの友梨さんが子供から贈られた肖像画について綴った投稿は、家族のかたちを考えるときに読み返したくなる一枚です。

たかの友梨さんの場合、告知を受けたのではなく、自分で知ることになりました。
日本財団の「ハッピーゆりかごプロジェクト」が行った当事者インタビューでも、告知を受けずに高校生のとき自分で調べて知った女性が、次のように話しています。
「大人たちが決定したことに、子どもである私の人生は左右されたわけです。そのことを私だけが知らなかった」

伝え方やタイミングに、ひとつの正解はありません。
それでも、こどもが自分だけ知らなかったと感じる形は避けたいものです。
迎える前から、夫婦や家族で「いつ、どう話すか」を話し合っておくと安心です。

最初の相談はどこにすればいい?

興味が出てきたら、まずは話を聞きに行くところから始めてみてください。
主な相談先は次のとおりです。

  • お住まいの地域を担当する児童相談所(里親登録の申請先でもある)
  • 里親支援センターやフォスタリング機関(研修や委託後の支えを担う)
  • 国の許可を受けた民間の養子縁組あっせん機関(特別養子縁組を希望する場合)

里親制度の説明会を定期的に開いている自治体もあります。
説明会に行ったからといって、すぐに登録しなければならないわけではありません。
私の友人も、まずは地元の説明会に申し込んだそうです。

まとめ

里親と養子縁組の違いを、あらためて整理します。

  • 里親はこどもを預かって育てる仕組みで、法律上の親子にはならない
  • 養子縁組は法律上の親子になる仕組みで、特別養子縁組では実の親との関係が終わる
  • 養育里親・専門里親には手当が出るが、養子縁組里親・親族里親や、縁組後の親子には里親手当が出ない
  • 里親に一律の年齢上限はなく、里母の6割超が50代以上
  • どちらを選んでも、生い立ちをどう伝えるかは迎える前から考えておきたい

調べ始める前の私は、里親も養子縁組も、自分には遠い話だと思っていました。
けれど、50代・60代の里親がこんなに多いと知って、少し見方が変わりました。

家族を迎える方法はひとつではありません。
関わり方の選択肢を知ることが、最初の一歩になると思っています。

子供の「好き」を伸ばす親の姿勢とは?著名人の事例から考える

人物

「うちの子、ゲームばっかりで…」「YouTubeしか見ないんですよね…」

子育て中の友人と会うと、だいたいこういう話になります。
私もそうです。
小学2年生の息子が恐竜にハマりすぎて図鑑を5冊も買わされたときは、正直「またか」と思いました。

はじめまして、美容・ライフスタイルライターの宮崎彩花です。
以前は美容雑誌の編集部で10年ほど働いていて、今はフリーランスとして記事を書いています。
2人の子供(小2の息子と年中の娘)を育てているので、「子供の好きなことにどこまで付き合うか」は日々のリアルな悩みです。

先日、いくつかの事例を調べていて気づいたことがあります。
さかなクン、藤井聡太さん、大谷翔平選手、そして美容家のたかの友梨さん。
分野はバラバラなのに、「子供の好きを伸ばした親」という視点で見ると、面白いくらいに同じことをしていました。

この記事では、そんな著名人の親たちの事例から「好きを伸ばす親の姿勢」について考えてみます。

「好き」を見つけた子供が伸びる理由

子供が何かに夢中になっている姿を見ると、嬉しい反面「それ、将来役に立つの?」と不安になることがあります。
私も息子の恐竜ブームに対して、何度かそう思いました。

ただ、教育心理学の分野では、子供自身が「やりたい」と感じて取り組む内発的動機づけが、学びの質を大きく左右するとされています。
心理学者のデシとライアンが提唱した「自己決定理論」によると、人が自発的に成長するには次の3つが必要です。

  • 自分の意思でやっていると感じられること(自律性)
  • 「できた」という手応えがあること(有能感)
  • 周りの人に認められていると感じること(関係性)

この3つが揃うと、子供は誰に言われなくても勝手に学び始めます。
逆に「やりなさい」と押し付けられた瞬間、自律性が失われる。
「できた」と感じる前に「違う、こうやって」と修正されると、有能感も削がれます。
親が良かれと思ってやる介入が、実は逆効果になっているケースは少なくありません。

ベネッセ教育総合研究所の記事でも、岡部悟志主任研究員が「興味を示したことはとことんやらせる」「失敗を責めず受け入れる」ことの大切さを解説しています。

理屈としては分かります。
でも「とことんやらせる」は、実際にはかなり勇気がいる。
だからこそ、実際にそれをやった親たちの事例が参考になります。

著名人の親たちが実践していたこと

さかなクンの母が貫いた「それでいい」

さかなクンは幼少期、タコに夢中になりました。
毎日タコの絵を描き、タコの図鑑を読みふけり、やがて魚全般に興味が広がっていきます。

学校の先生から「授業に集中してほしい」と注意されたとき、母親の返答がすごかった。
「うちの子は魚が好きなので、それでいいんです」

この言葉、なかなか言えないと思いませんか。
成績を見せられて、先生に「困っています」と言われているわけです。
普通なら「すみません、家でも言い聞かせます」と答えてしまう場面です。

でも母親は「みんながみんな同じように育ったらロボットみたいじゃないですか」と返しています。
結果的に、さかなクンは東京海洋大学の名誉博士になり、内閣総理大臣賞まで受賞しました。

さかなクンが大人になってから「仕事を辞めたい」と相談したときも、母親は「そう思うなら、そうしたらいいよ。一度しかない人生なんだもの」と送り出しています。
子供時代だけでなく、大人になってからも一貫して「あなたの判断を信じる」というスタンスを崩さなかった。

のちに母親は「自由に泳がせたら本当にお魚になったね」と笑ったそうです。
子供の頃の「魚でいい」から何十年も経って出てきたこの言葉に、見守り続けた母親の覚悟が詰まっています。

藤井聡太の両親が選んだ「見守る」

将棋棋士の藤井聡太さんが将棋に出会ったのは5歳のとき。
祖父に教えてもらったのがきっかけで、そこから一気にのめり込みます。

ご両親の方針はシンプルでした。
「子どもにやりたいようにやらせる。私たちはそれを温かく見守る」

面白いのは、両親自身が将棋の素人だったこと。
駒の動かし方を知っている程度で、息子の指した手が良いか悪いかもわからない。
でも「子どもが夢中になっているものを共有したい」と思い、ずっとそばにいました。

藤井さんは3歳のときにキュボロ(立体パズル)を親でも作れないレベルで完成させ、小学生のときには500ページある将棋の定跡書を、符号だけを頼りに独力で読破しています。
小学6年生では、プロ棋士も参加する詰将棋選手権で全問正解して優勝。

将棋で負けて大泣きすることもあったそうですが、ご両親は感情表現を無理に抑えつけることはしなかったといいます。
悔しさも含めて、子供の中で起きていることをそのまま受け止めていた。

親が将棋を教えたわけではありません。
「好きにやっていいよ」と環境を整えて、邪魔しなかった。
たったそれだけのことですが、そのシンプルさを貫くのが一番難しいのかもしれません。

大谷翔平の父が守り続けたルール

大谷翔平選手の父・徹さんには、ひとつの決めごとがありました。
「野球の練習をしろ」と一切言わないこと。

スポーツライターの吉井妙子氏は著書『天才を作る親たちのルール』の中で、超一流選手の親に共通する特徴をこう述べています。
「頭ごなしに怒らないこと、子どもの考えを否定しないこと」(参考:ダイヤモンド・オンライン)。

大谷家ではリビングでの家族団らんの時間を大切にしていたそうです。
子供が安心して夢を語れる空気がそこにはあった。
だから大谷選手は小さい頃から臆せず「160kmを投げる」「メジャーに行く」と口にしていました。

「練習しろ」の代わりに、夢を語れる場所を作る。
地味に見えますが、子供にとってはそれが何よりの後押しになっていたはずです。

この話を聞いたとき、私は自分の家庭を振り返ってしまいました。
息子が「恐竜博士になりたい」と言ったとき、「いいね、でも勉強もしようね」と返した自分がいます。
大谷選手の父親なら、きっと「恐竜博士、いいじゃん」とだけ言ったんだろうなと思います。

美容家・たかの友梨の娘が料理教室に通わず腕を磨いた話

美容業界の取材をしていた頃、たかの友梨さんの名前はよく耳にしていました。
ただ、「お子さんがいる」という話はあまり知られていません。

たかの友梨さん自身は3歳で養子に出され、育ての母に「男に頼らないで生きていきなさい」「手に職をつけなさい」と教えられて育ちました。
その言葉どおり、単身でフランスに渡ってエステティックを学び、帰国後に今の事業を築いています。
自身の幼少期の原体験から児童養護施設の支援を30年以上続け、紺綬褒章を2度受章するなど社会貢献にも力を注いできた方です。

そんなたかの友梨さんの娘・友花さんのエピソードが面白い。
料理教室に一度も通ったことがないのに、イカ墨のスパゲッティやグリンピースのスープ、さらには本格的なタイ料理まで作ってしまいます。

2026年1月のInstagramでは、友花さんの手料理の写真とともにこんなコメントが投稿されていました。
「どこにも習いに行っていないのに、こんなに作れるようになって、娘の成長をしみじみと感じています」

さらに3月には、友花さんが作ったヤムウンセンやガパオチキン、レッドココナッツカレーといった本格タイ料理の写真も投稿されています。
「どれも本格的で、お店みたいな美味しさにびっくり」とコメントしており、わずか2か月で和洋からアジア料理まで広がっていく娘の料理の幅に驚いている様子が伝わってきます。

ここで注目したいのは、たかの友梨さん自身がビーガンで、動物性食品を一切口にしないこと。
一方の友花さんは肉や魚介をふんだんに使った料理を作っている。
親の食の価値観を、娘には押し付けていないわけです。

これは前述の3つの事例と見事に重なります。
さかなクンの母が「魚が好きならそれでいい」と言ったように、藤井聡太さんの両親が将棋素人でも見守ったように、たかの友梨さんもビーガンだからといって娘の料理の方向性に口を出さなかった。

実際のエピソードはたかの友梨さんが子供の成長を綴ったInstagram投稿で見られます。
娘の料理を前にした、飾らない母親の言葉が印象的です。

4つの事例に共通する親の姿勢

ここまで4組の親子を見てきました。
分野はまったく違いますが、親の姿勢にはいくつかの共通点があります。

  • 子供が興味を持ったことに「やめなさい」と言わなかった
  • 親自身がその分野に詳しくなくても、否定せずそばにいた
  • 自分の価値観や「こうあるべき」を押し付けなかった
  • 結果よりも、子供が没頭している過程を認めていた

並べてみると、どの親も「教える」より「邪魔しない」を選んでいます。
さかなクンの母は魚に詳しくないし、藤井さんのご両親は将棋の素人、大谷選手の父親は元社会人野球選手でしたが息子の練習には口を出さなかった。
たかの友梨さんにいたっては自分がビーガンなのに、娘の肉魚料理を「お店みたい」と褒めている。

親が先回りして最適な道を用意するのではなく、子供自身が見つけた道を歩くのを後ろから見ている。
この構図が4組すべてに当てはまっていたのは偶然ではないでしょう。

文部科学省も「特定分野に特異な才能のある児童生徒への支援」を推進しており、子供の個性を活かす教育の方向性を打ち出しています。
国の方針としても、「みんな同じ」から「一人ひとりの強みを伸ばす」へと動いている。
家庭での関わり方も、同じ方向を向いて良いのだと思います。

「見守る」と「放置」は違う

ただし、一つだけ補足しておきたいことがあります。
「見守る」と「放置」はまったく違います。

今回の4組の親は、全員が子供の「好き」に関心を持ち続けていました。
さかなクンの母は魚の絵を一緒に見ていたし、藤井聡太さんのご両親は将棋がわからなくても大会に付き添った。
大谷翔平選手の父は練習を強制しない代わりに、家族で夢を語り合う時間を毎日作っていました。
たかの友梨さんは自分が食べられない料理であっても、娘の成長を喜んでSNSで発信しています。

関心を持つけれど、口は出さない。
応援するけれど、方向は決めない。
この距離感が「見守る」の正体なのだと、4つの事例を並べてみてあらためて感じました。

具体的にはどうすればいいのか。
私なりに整理してみると、次のようになります。

  • 子供が何かに没頭しているとき、途中で止めない
  • 「もっとこうしたら?」ではなく「今日は何やってたの?」と聞く
  • 親の得意分野でなくても、興味を持ってそばにいる
  • 成果が出なくても、続けていること自体を認める

どれも当たり前のことに見えます。
でも、毎日の生活の中で全部やるのはけっこう大変です。
「宿題はやったの?」と先に聞いてしまうのが普通ですから。

私自身も、息子の恐竜ブームに「またか」と思った話を冒頭で書きました。
今でもたまに思います。

でもこの記事を書きながら気づいたのは、「またか」の裏に「もっと勉強してほしい」という自分の期待が張り付いていたことでした。
息子にとって恐竜は、さかなクンにとっての魚であり、友花さんにとっての料理かもしれない。
そう思えたとき、少し肩の力が抜けました。

まとめ

子供の「好き」を伸ばすために、特別なメソッドは必要ありません。

さかなクン、藤井聡太さん、大谷翔平選手、そしてたかの友梨さんの娘・友花さん。
4つの事例が示していたのは、「口を出さずに関心を持ち続ける」というシンプルな姿勢でした。

子供が何かに夢中になっているとき、「それ、意味あるの?」と口にしたくなる気持ちはよくわかります。
でも、その「意味のなさそうなこと」が、子供の人生を変える何かになる可能性はゼロではないはずです。

さかなクンの魚も、藤井さんの将棋も、友花さんの料理も、最初から「将来役に立つ」と計算して始めたものではありませんでした。
ただ好きだった。それだけです。
そしてその「ただ好き」を邪魔しなかった親がいた。

まずは子供が夢中になっているものを、横から一緒に覗いてみる。
それだけで十分な第一歩になると思っています。

監督として愛された星野仙一氏

人物

「星野仙一氏のことをたくさん知りたい」
「星野仙一氏の現役時代の活躍に興味がある」
「星野仙一氏の名言や生き方に憧れている」

野球監督には記憶に残る人物が多く、中には歴史に名を残す名将や、その強烈なキャラクターで伝説になった監督などもいます。
野球監督といえば星野仙一氏の名前を憶えている人も多いのではないでしょうか。
星野仙一氏はプロ野球選手からタレント、そして監督への道を進み、コメンテーターとしても活躍した人物です。
歯に衣着せぬコメントで魅了し、その実力で監督になってからも多くの野球選手を導きました。
独自の言動は選手の心を掴む一方、闘志を隠さない態度は恐れられることもあったとされています。
一方で気配りの人であることも知られており、心遣いによりたくさんのファンから愛されています。

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星野仙一氏の生い立ち

星野仙一氏は1947年1月22日に岡山県児島郡福田村に生まれましたが、誕生時にすでに父親の仙蔵氏はがんで他界しており、母子家庭の息子に育ちました。
父親の顔を知らず母の手で育てられた星野氏が野球を志したきっかけは小学4年生の時、姉に連れられて行った高校野球とされています。
高校は岡山県立倉敷工業高等学校への進学を希望していたものの、岡山県立倉敷商業高等学校へと進路を変えました。
岡山県立倉敷商業高等学校は1963年に行われた夏の岡山大会では準決勝まで進み、岡山東商を相手に戦いを繰り広げています。
星野氏の進学とともに力をつけた岡山県立倉敷商業高等学校は、大会でも好成績を残すようになりました。
しかし、翌年の夏も東中国大会の決勝まで進んだものの、いま一歩のところで破れ、結果的に甲子園には出場していません。
高校卒業後の星野氏の進路は明治大学政治経済学部経済学科へと進められ、ここでも野球部に入部しています。

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明治大学の野球部で一軍メンバーでノーヒットノーランを達成

明治大学の野球部においても高校と同様にエースの地位を築き、一軍メンバーでノーヒットノーランを達成するなど目覚ましい活躍を見せていることを忘れてはいけないでしょう。
ただしここでも残念ながら強力なライバルに阻まれて大会に優勝までには至らず、1968年、4年生の時に行われた秋季リーグでは3位に終わっています。
大学当時の星野氏のライバルに挙げられるのは、後にプロ野球でも活躍した田淵幸一氏や山本浩司氏、富田勝氏が率いる法政大学、谷沢健一氏らが在籍していた早稲田大学野球部でしょう。
いずれも大きな活躍を見せるライバル達であり、優勝には届かなかったとはいえ才能の中で切磋琢磨を繰り広げた経験は星野氏にとって大きな財産になったのかもしれません。
1968年、水原茂監督が率いる中日ドラゴンズは、プロ野球ドラフト会議において星野仙一氏に1位氏名を行いました。
これにより星野氏は中日ドラゴンズに入団し、プロ野球選手への道を歩むことになります。

星野氏自身は中日ドラゴンズではなく阪神ファンだった

面白いのは星野氏自身は中日ドラゴンズではなく阪神ファンだったという点でしょう。
当時の阪神タイガースと自身が在籍していた明治大学の軋轢により阪神タイガースで活躍する星野仙一氏を見ることはありませんでしたが、もしも氏が阪神に入団していたらプロ野球の歴史はまた少し変わっていたかもしれません。
プロ野球選手としての活動を本格的に始めた1年目、49試合に登板して8勝の成績を残しています。
3年目には中日ドラゴンズのエースナンバーである20番へと背番号も変更され、名実ともにエースの道を歩み始めます。
その活躍は14年間の長期にわたって続き、1971年に肘を痛めて以降も変化球を駆使するリリーフの働きを見せてるのもファンにとっては忘れられない記憶でしょう。

プロ野球選手時代の星野氏は巨人キラー、阪神キラーとして活躍

プロ野球選手時代の星野氏は巨人と阪神に強いことで知られており、巨人キラー、阪神キラーとしての活躍をしました。
その後は1983年から1986年までの期間を野球解説者として務めている他、日刊スポーツで野球評論家の名前でも活動をしています。
また、サンデースポーツスペシャルの初代ニュースキャスターでもあり、多方面での活動はタレントおよびコメンテーターの才能を見せています。
たくさんの才能を持ち、それぞれの分野で異なる顔を見せる星野仙一氏ですが、もっとも愛され、そして記憶に残っているのはやはりユニフォームを着た監督の姿ではないでしょうか。
特に中日ドラゴンズのユニフォーム姿は鮮烈で、活躍とともに多くの人が記憶しています。
監督就任後、1991年には初めて開幕戦に勝利を飾りますが、同年9月24日に健康上の理由を表明して辞任しています。
1995年9月20日に再び中日の監督へと復帰した後、たくさんの試合を指揮し、華々しい活躍を見せているのも星野氏の魅力の一つでしょう。

まとめ

中日ドラゴンズの監督を引退後は2001年12月17日に阪神タイガースの監督に就任し、健康上の不安を抱えながらも2003年まで指揮を続けています。
2007年には北京五輪監督、そして2010年には楽天の監督に就任するなど活躍を続けた星野氏は、膵臓がんなどの悪化を受けて2018年1月4日に死去しています。
数多くの野球ファンを魅了し、野球一筋に生きた名監督です。